人は二度死ぬ
人は二度死ぬ
この言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。私はこの言葉を初めて聞いたとき、少し安堵するような、妙に納得できるような感覚がありました。皆さまはいかがでしょうか。
一度目の死は肉体の死。心拍が停止し、徐々に細胞の活動が止まり硬直が起こります。このとき意識体は自分自身の亡骸を上から見下ろしているといいます。そして二度目の死は、自分を思い出してくれる人が誰もいなくなったとき。それは自分を知る人がこの世に一人もいなくなったときのことを言っているのかもしれません。
魂の成長
私たち看護師は多くの方の最期の瞬間に立ち会います。その経験させていただける職業は限られていて、看護師、医師、介護士のみかと思います。きつい仕事だと思われるかもしれませんが、そこに魂の成長があるような気がしています。私たちに託された課題があるような気がしてならないのです。
昨今、命の宣告を受ける方が増えています。これだけ多くの人がそれほど厳しい局面に立たされているのにも意味があり、人類は何か見直すべきことがあるのではないかと考えるんですね。私自身が「人は二度死ぬ」という言葉に妙に納得できてしまうのは、十数年前に父親の死を経験したからかもしれません。
父親の死を通して
父が生きているとき、一人娘だった私は自分の話ばかりしていました。生前、父が何を楽しいと感じ、何を嫌だと思い、何を喜びとしていたのかまったく知りませんでした。父のことをよく知ったのは他界した後。周囲の方々から父の話を聞いて、初めて父の生き様が見えたのでした。
喪主だった私は職場にお願いをして四十九日までお休みをいただきました。そして毎日父の遺品を片付けながら、心の中で父と対話をしていました。そうすると、生きていたときには決して語らなかったけれど、父の生き様から伝わって来るものがありました。それは、その時の私には無いもので、まるで課題を受け取ったかのように感じました。人の死は無意味ではない。残される人のためにあるのかもしれません。亡くなったからこそ伝えられることがあるような気がいたします。
想いは語り継がれる
たとえば歴史上の人物の織田信長などは、人々の記憶に存在し何百年も語り継がれていることから、まだ二度目の死を迎えていないと言えます。肉体は気化しますので、気化した織田信長のエネルギーは今もまだ空気中を彷徨っているのかもしれません。
そして私たちが「おだのぶなが」と心の中でつぶやいたとき、その言葉のエネルギーによってバラバラになっていた織田信長の気がヒュッと集まり、空中に魂がポッと現れているかもしれません。私たちは肉体がなくなったからといって終わるわけではなく、人々の記憶の中で生き続けるのです。
亡くなった人にしか伝えられないことがある
たとえばあなたが今、どんなに息子さんに言うことを聞かそうとしても反発されているとして。もしそのまま亡くなった場合、その後のことを想像できるでしょうか?息子さんはあなたが残したものや周囲の言葉から父親の生き様を知り、そこから感じたことや気づいたことは、息子さんにとって掛けがえのないものとなるでしょう。おそらく一生涯守り通すでしょう。そしてさらに、あなたの孫に語り継ぐかもしれません。
人は亡くなった後にこそ影響を与え、亡くなった人にしか伝えられないことがあるのです。
「人は二度死ぬ」
ならば私たちは、どのように生きるかを考えねばなりません。
あなたは亡くなった後、周囲に何を伝えたいでしょうか?