万人を救った天皇の言葉 / 日本は稀有な国①
「優しさ」「思いやり」「潔さ」「努力」「忍耐」…
外国人が驚くような素晴らしい国民性が日本にあります。
ですが多くの日本人は、その価値よりも自虐精神の方が強く、日本という国、日本人という自分に誇りを持てないでいます。
とくに戦争では事実が捻じ曲げられ、日本人は酷いことをした国民であるという偽りの擦り込みによって、日本人であることを恥じている人も数多くいます。
自虐史観の洗脳は、長らく日本人の自信喪失につながっているだけでなく、次世代を担う子供たちの心まで蝕んでしまうほど、根深く浸透してしまっています。
明治開国から150年、戦後70年。
私たちは、これまでの誤った歴史認識の時代を終わらせなければなりません。
そして日本の未来を担う子供たちに日本の歴史の真実を伝え、日本という気高い国に生まれたことに誇りを持ち、勇気と希望を持てるよう導くことが、今を生きる大人たちに課せられた役割ではないかと思います。
日本人に知らされていない日本が沢山あります。
よって、徐々に明かされつつある日本の歴史についてお伝えしたいと思っております。
どうか、御自身のためにもご一読いただけたらと思います。
—————————————————————–
1945年(昭和20年)8月15日、昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を表明し、
日本は敗北を受け入れ、大東亜戦争は終結しました。
「耐えがたきに耐え、忍びがたきを忍び、以って万世のために太平を開かんと欲す。」
この頃天皇が愁いていたのは、占領軍の方針でした。
天皇は自分の臣下だったものが戦争犯罪人として裁かれることを心配していました。
木戸内大臣に天皇はこう漏らしていました。
「自分が一人引き受けて、退位でもして収めるわけにはいかないだろうか。」
(出典:朝日新聞)
8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサが日本に進駐しました。
マッカーサは第一生命ビルにGHQ総司令部を設け、皇居を見下ろす6階の執務室で、日本の占領政策に着手しました。
9月27日、敗戦国の国王となった昭和天皇は、敵将マッカーサに会うために、アメリカ大使館公邸を訪れました。
大使館公邸の玄関で昭和天皇を出迎えたのは、マッカーサではなく、わずか2人の副官だけでした。
昭和天皇の訪問の知らせを聞いたマッカーサは第一次大戦後、占領軍としてドイツに進駐した父に伴っていたときに、敗戦国ドイツのカイゼル皇帝が、占領軍の元に訪れていたことを思い出していました。
カイゼル皇帝は
「戦争は国民が勝手にやったこと、自分には責任がない。
従って自分の命だけは助けてほしい。」
と命乞いを申し出たのでした。
同じような命乞いを予想していたマッカーサは、パイプを口にくわえ、ソファーから立とうともしませんでした。
椅子に座って背もたれに体を預け、足を組み、マドロスパイプを咥えた姿は、あからさまに昭和天皇を見下していました。
(出典:ASSOCIATED PRESS)
そんなマッカーサに対して昭和天皇は直立不動のままで、国際儀礼としての挨拶をした後に、自身の進退について述べました。
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。
私の命においてすべてが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。
絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります。
しかしながら、罪なき8000万人の国民が住むに家なく着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。
温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように。」
この言葉にマッカーサは驚きました。
自らの命と引き換えに、自国民を救おうとした国王が、世界の歴史上あっただろうか。
マッカーサは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。
マッカーサは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、
「天皇とはこのようなものでありましたか!
「天皇とはこのようなものでありましたか!
私も日本人に生まれたかったです。
陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申し付けください」と。
陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。
この私に何の望みがありましょうか。
重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と。
(出典:産経ニュース)
マッカーサはこのときの感動を『回想記』にこう記しています。
「私は大きい感動にゆすぶられた。
死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、
明らかに、天皇に返すべきではない責任までも引き受けようとされた。
この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。
私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士である、と思った」
このときマッカーサは、次のように返答したといいます。
「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。
占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総べて陛下のお力添えである。
これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願いしたい。」
(藤田侍従長による『侍従長の回想』)
マッカーサは、立ち上がって昭和天皇の前へ進み、抱きつかんばかりに天皇の手を握りしめて、
「私は、初めて神の如き帝王を見た」と述べました。
わずか37分間の会見で、マッカーサの昭和天皇に対する態度は、まったく変わっていました。
会見前は傲然とふん反りかえっている態度をとっていたマッカーサが、
会見後には昭和天皇のやや斜め後ろを歩くような敬虔で柔和な態度で、会場から出て来たといいます。
会見後、マッカーサは予定を変更して、自ら昭和天皇を玄関まで見送りました。
当時、1000万人の餓死者を出すように、天皇を死刑にするように、
と本国から言われていたマッカーサは、それらをすべきでないと考えました。
むしろ天皇の願いに応えるように食料調達などに尽力し、日本国民の衣食住を極力守り、天皇の助命を訴えました。
マッカーサは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』と言ったそうです。
1951年4月、アメリカ本国のトールマン大統領と対立するようになったマッカーサは、
大統領から更迭を指示され、日本を離れました。
(出典:Wikipedia)
1955年、重光外相は安保条約改定に向け、ダレス国務長官と会談するためにアメリカに渡りました。
重光外相は訪米前に、昭和天皇に拝謁しました。
昭和天皇は、
「もし、マッカーサ元師と会合の機会もあらば、自分は米国人の友情を忘れたことはない。
米国との友好関係は終始重んずるところである。
特に元師の友情を常に感謝して、その健康を祈っている、と伝えてもらいたい」
と外相に伝えました。
重光外相は訪米すると、ニューヨークにいたマッカーサを訪ね、昭和天皇の御言葉を伝えました。
マッカーサは、
「私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに、憚らないのである」と語りました。
さらに、マッカーサは昭和天皇と初めて会見した日を回想し、昭和天皇が
「自分はどうなってもかまわない。自分は全責任を負う」
と述べられたことに触れて、重光外相にこう語りました。
「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。
もし国の罪を贖うことができれば、進んで絞首台に上がることを申し出るという、
この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした。
陛下は御自身に対して、いまだかつて恩恵を私に要請したことはありませんでした。
とともに決して、その尊厳を傷つけた行為に出たこともありませんでした。
どうか日本にお帰りの上は、自分の温かいご挨拶と親しみの情を陛下にお伝えください。
その際、自分の心からなる尊敬の念をも同時に捧げてください。」
—————————————————————–
この記事はYouTubeで配信されているものを書き写しました。
同じような記事が多数あります。
<命をかけてマッカーサーと対峙した昭和天皇!その時歴史が動いた・・>
(出典:New Sphere)
皇室には古代から“大御宝”(おおみたから)という教えがあります。
国の幸せは民の幸せによってもたらされるのだから、民は国の宝であるという教えです。
その美しい心が御霊となって代々天皇に引き継がれ、
魂(粒子)が磁石のように霊(霊駆り=エネルギー)を惹きつけて、マッカーサ元師の心を吸い寄せたのでしょう。
しかしながら真実が明かされないまま亡くなられた御霊は、今もまだ私たちのそばから離れられないでいます。
無念を抱えた魂は重く、天に昇れず漂うのです。
そして八百万の神々とともに暮らしてきた私たち日本人の根源は、御霊の念を自ずと受けてしまうのです。
だからこそ歴史の真実を知り、多くの御霊を癒して差し上げることー
私たちの幸せや健康は、過去の上に成り立ちます。
この道を通らずして日本が救われることがあるでしょうか。
“日本人としての誇り”を取り戻すことは、いつしか健康の基盤になることと思います。
日本は稀有な国です。
ご覧くださりありがとうございます。