魂で見る介護と認知症
先日、数人で話しているとき介護の話になりました。介護が「日常生活の支援」という認識は普通かもしれませんが、それはとても切なく苦しい介護だと思います。
今は元気な人も、介護はつながっています。介護を受けている人だけの問題ではなく、人生という時間を超えてつながっています。3回に分けて「魂で見る介護と認知症」についてお伝えします。
魂で見る介護と認知症
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1.介護を受ける人の魂
2.介護する人の魂
3.介護職の魂
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1.介護を受ける人の魂
介護・認知症の根底には恐怖があります。戦後の貧しい時代だったからこそ日本は物質や金銭的な豊かさを求め、高度成長しました。みなが一丸となって裕福な暮らしと安定を目指し、仕事中心で生きた時代です。この方々の偉業によって今の生活があり、私たちは十分感謝せねばなりません。
ですが最期の時が近づくにつれ、人は感じ始めるんですね。社会を引退して、自分を敬ってくれる人がいなくなる。人間関係がなくなって、功績を認めてくれる人がいなくなる。子供は自立して、親としての努力が認められなくなる。体力がなくなって、思うほど動けない。そして贅沢するほどの収入もない。
両手いっぱい掴んでいたはずなのに、目指していた場所に辿り着いてみると…
何も無い。
すると、こう思い始めるのです。
「私はいったい誰の人生を生きたのだろう…」と。
戦後の貧しさに加えて、アメリカが行ったWar Guilt Information Program(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)。日本は欧米に倣って成果を求め、利益を求め、技術革新をして多くのモノを得る代わりに、心の豊かさを失っていきました。その過程でさまざまな葛藤があったと思います。ですが心の危険信号に気づくことなく、上へ上へと走り続けたのでしょう。
自我や欲求が勝っているとき、人は盲目です。未来や過去に囚われているとき、人は盲目です。内なる自分から発せられている無言のシグナルを無視し、自分を誤魔化し、取り繕い続けてしまうのですね。自分自身への裏切りはすべて魂に描写され、魂である「体」は穢れて動かなくなっていきます。
認知症は魂の浮遊です。魂は本来5つあり下丹田に鎮まっていますが、戦後に1つ抜かれています。あちこちに欲求が散らばっているのと同じで、魂もあちこちに散らばったまま。そのため、ふと何かに呼ばれるようにフラッと外に出たり、まるで分身を探し回るかのように徘徊を繰り返します。
自分の人生を生きた気がしない
だから死に近づくのが怖い
魂は経験した念や感情を持ち続けるため自我があります。人は時間が経てば過去を忘れたように感じますが、そうではありません。感じたこと、記憶、想念、観念、信念、感情、不快感、その根っこには自我や欲求があります。それらすべての情報は時間とともに粒子になり、魂に付着していきます。
何もしなければ、その穢れは積もる一方。ですが戦後の日本は、神道や仏教など生きる道標をも喪失した時代でした。栄養状態が良くなったから長生きできるようになったと言う人もいますが、そうではありません。医療技術の発展により、生き長らえさせることが可能になっただけかもしれません。
亡くなった後、肉体は焼かれて「気化」し、気の塊が「魂」になるわけですが、念を多く抱えた魂は重く、天上界に上がれず人間界を彷徨います。また介護の辛い状態や認知症は、「この生き方は違うよ」と次世代の私たちに姿を見せてくださっているとも言えるのですが。気づく人が少なければ、これからも増え続けるでしょう。
物事はすべて、生きている人の成長のためにあるのです。
次は「介護する人の魂」です。