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日本は審神者(さにわ)の国だった/稀有な国にほん④

12月のことを日本では「神無月」と言います。日本中の神様が出雲の国に集まるため、地元の神様が居なくなるとして、神無月と表現されています。日本には「八百万の神々」という、日常のあちこちに神が宿っている認識が古くからあります。

鏡餅をあちこちにお供えする

年の瀬になるとあちこちで餅つきが行われます。そして大小さまざまな大きさのお餅をつくります。お正月の鏡餅は大きいものを玄関やリビングに、それより少し小さいものを神棚や仏壇に、そしてお台所には竈神(かまどがみ)荒神(こうじん)さまが火の神としておられるとし、トイレには厠神(かわやがみ)さまがおられるとして、小さな鏡餅を供えていました。あなたが子供の頃もそうではありませんでしたか?

日本にいるとそれが当たり前で違和感ないかもしれませんが、日本以外の国はみな一神教で、ひとりの神様に生贄を供えるという考え方です。日本のように神があちこちに大勢いるというのは、稀有(けう)な多神教の考え方です。

あらゆるものに敬意を払う

日本では昔から、日常で関わるもの一つ一つに対し敬う気持ちを持っていました。戦前の思想家、今泉定助が「霊魂とは宇宙万物の根源たるものを云ふ」と残しています。とくに島国である日本は、水や山など自然からの恩恵を感じ、日常で関わるもの一つ一つに対し敬う気持ちを持っていました。

たとえば「おいなりさん」「おまめさん」と「さん」を付けたり、「おむすび」「お豆腐」「お茶」「お米」など「お」を付けて呼んでいました。今もそうですね。また場にも「お店」「お風呂」「お手洗い」など、自然の身魂にも「お水」「お山」「お空」と「お」を付け、日本人はいたるところに精霊の存在を感じてきた国なんですね。

変わり身の術

日本では日本人形が有名ですね。幼い子供の霊が乗り移って髪が伸びるなど、不思議なことが信じられてきた国です。また呪いをかけるわら人形など。人形に念を込めれば実際に不幸が起こるということも信じられてきた国です。身近な日常にもそれはありました。小さな子はまるで自分の分身であるかのように、一つのぬいぐるみを愛用し続けます。そして雛人形は女の子の嫁入りに喩えられました。また幼い頃、親がかばんに人形を付けてくれませんでしたか?万が一のとき「身代わりになってくれるから」と。交通事故などから身を守る安全のお守りとして付けてくれていたのですね。

人形が生きている。人を人形に見立てて念を込める。自分を人形に見立てて守ってもらう。こういった見方は日本独特のもので、自分(主体)と対象(客体)を「審神者(さにわ)する」ということが出来ていたんですね。審神者は古代の神道において、天皇と神の間に立ち、ご神託を客観する役割のことを言います。神社では「式神」として人の形をした紙に名前を書いてお祓いを行ないます。精度の差こそあれ、日本は庶民もが日常の中で審神者の視点を持っていたのです。

能の世阿弥が行なっていたこと

室町時代に能を確立した世阿弥は、脚本を書き、自ら演じて観客を惹きつけていました。「初心忘れるべからず」という言葉は世阿弥の言葉ですが、それ以外にも世阿弥は数々の言葉を後世に残しています。その世阿弥が、舞台に立つ者の心得として『目前心後』という言葉を残しています。目は前を見ているけれども心は背後において、自分自身と観客を客観せよ、という意味です。そうしたとき、初めて観客と演者が一つになっているかどうかわかる、ということだと思います。

天皇が行なっていたこと

以前、開戦の詔勅と終戦の詔勅をご紹介しましたが、天皇は億兆の人のため、敷いては世界の平和のために開戦を決意し、また世界の平和のために終戦を決めました。それは日本が審神者する視点を持っていたから、なんですね。諸外国には考えられないことでした。また、日本は戦時中も植民地国が独立するための統治について指導したり、豊かになるために創意工夫して尽くして来ました。それは戦争が終わった今も同じです。ゆえに日本ほど各国から慕われている国民、敬われている皇室は他にないんですね。

健康は自分と病気を審神者する

心理面から健康を見るとき、現代で健康被害になっているのは「人間関係のストレス」「お金」「病気」です。人間関係は自分(主体)と相手(客体)を審神者することで解が得られます。またお金は自分(主体)と会社や銀行などの組織(客体)を審神者することで解が得られます。そして病気は自分(主体)と症状がある体の部分(客体)を審神者することで、真の原因が見えて来ます。そうしたとき初めて、どうすれば悪化を防げるか、予防できるか、自分自身の問題がわかるんですね。それは「内なる医者」とも言える神の存在です。

現代人は忘れてしまっていますが、おそらく古の感覚として体に眠っているのではないかと思います。一神教の文化は、誰かが優位に立つため自ずと個人主義になって争いが起こりますが、多神教は個々に価値があるがゆえ一つになれるという、平和で穏やかな文化です。

 

 

 

 

 

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